「ゲームやスマホは1日1時間まで」という条例について、ネットで話題になっています。
「18歳未満はスマホ1日1時間」 香川県がゲーム依存対策条例素案 「実効性は?」 https://t.co/KMNYtBzzzG
— 毎日新聞ニュース (@mainichijpnews) January 10, 2020
話題となっているのは、香川県議会が2020年4月の制定を目指しているという「ネット・ゲーム依存症対策条例」(仮称)です。
子供のスマホやゲームの使用は1日1時間(なぜか休日は90分らしい)を上限とし、小中学生以下は21時、それ以外は22時以降の使用をやめるよう求めるもので、罰則規定は特に無いとのこと。
個人的な意見ですが、この条例のあまりのテキトーさに最初はデマを疑ったほどです。
しかしそれと同時に、親世代と僕らゲームネイティブ世代(生まれた時からゲーム機があった世代)の間にはもの凄く認識のギャップがあるんだなぁと、改めて実感させられたのです。
ゲームやスマホが引き起こすデメリットとは
ゲームを過剰にプレイするデメリットとして昔からよく言われているのは、「学力・体力の低下や睡眠障害、引きこもり」などです。(素案でもそのように強調されています)
確かにブルーライトばかり浴びてサンライト(日光)を浴びないような生活は、お世辞にも健康的であるとは言えません。高校生以下であれば尚更でしょう。
でも、ゲームに限らずデスクワークや座学でも体力の低下や睡眠障害は引き起こされるんだよなぁ…。
さっそくツッコミを入れてしまいましたが、もちろんゲームをしたりスマホを使う上で注意すべき点は確かにあります。
例えばスマホの通知は集中力の低下に繋がるため、集中したい時は通知を切ったり、使用を控えたりすることが大切でしょう。
ですが、「学力・体力の低下や睡眠障害、引きこもり」などの直接的な原因がゲームにあるのか、といった点は明確に示されていないのが現状であり、そんな曖昧なことを果たして条例として定めるべきなのか、といった点も議論を呼んでいるのです。
「ゲーム禁止」の問題点→何もかもガバガバ過ぎる点
まず「ゲーム」の定義って何だよ(哲学)
まず考えなければならないのは、「ゲーム」の定義とは一体何なのか、という点です。
例えば僕は「DDLC」や「Undertale」といったゲームで英語を勉強したことがありますが(どちらも日本で大人気な海外発のゲーム)、そのときは1日6時間くらいやってました。さて、これもゲームなのでしょうか。
また、
- ゲームをバグらせるためにスクリプトをいじる
- マインクラフトで何かを作る
- ゲームの世界観を、自分なりに一生懸命に読み解こうとする
これらも「1日1時間」に制限すべき行為なのでしょうか。
いやむしろ、これこそが学校教育よりも何倍も自発性の高い、本来あるべき学びの姿ではないのでしょうか。僕にはそう思えてなりません。
(もちろん学校教育も非常に大事ではありますが)
今回話題となっている素案には、あくまで「悪質なゲーム・スマホ依存を防ぐ」という目的があるそうですが、そもそもゲームの定義とは何か。依存の定義とは何か。そのあたりを明確にしない限りは、まったく意味の無い議論になってしまいます。
というか現状すでにそうなってる。
実効性の無さ。つまり政策として不適切
先述した通り、「ゲームは1日1時間」を条例として定めるには、あまりにもエビデンスが不足しているという点も問題のひとつだと思っています。
香川県の条例素案にはゲームだけでなく「スマホも1日60分」と定められていますが、じゃあスマホを利用して映像授業を受けている時はどうなるのでしょうか?
映像授業はノーカンだけど、例えばHIKAKINを見ている時は60分のカウントダウンが始まって、じゃあ次に「中田敦彦のYouTube大学」を再生したときはどうなるのでしょうか。
そして子どもたちは、こんなつまらない事に付き合わされるのでしょうか。
こんなガバガバっぷりでは、そもそも条例として機能しようがありませんよね。いや、「実際にやってみるまで分からないじゃないか!」という意見や「独自のツールを導入すれば可能だ」という意見もあるかもしれませんが(いずれも現実味はまぁ…無いでしょうけども)、ほとんど「やりようがない」のです。
まぁ個々の家庭のルールとして「ゲームは1日1時間」を定めるのは100歩譲って良いとしても、これは条例ですからね。何より、”学び”と”ゲーム”を必要以上に分けて考えている時点で何かスマートじゃないなと思ってしまいます。
ゲームは「芸術」の入門
「エンゲージメント」という言葉があります。
これは”約束”とか”雇用”など、「相互に関わり合う」的なニュアンスがある単語です。例えば会社員の労働意欲などを示す指標にも「ワーク・エンゲージメント」と呼ばれているものがあったりします。
さて、この「エンゲージメント」という観点から考えるならば、ゲームほどエンゲージメント指数の高い(むしろ高くならざるを得ない)コンテンツってほとんど無いのでは?と思っています。
誰もが自分の手で操作し、自分が選択し、自分で決定する必要がある”ゲーム”というコンテンツ。
ゲームの世界観にのめり込み、イメージを膨らませ、ストーリーについて深読みせざるを得なくなる。
こういった感覚は、例えば将来的に大学で研究したり、芸術作品を楽しんだりする上で間違いなく必要になる感覚だと思っています。これは筆者も大学で実感した事ですが、何かひとつを骨までしゃぶり尽くす勢いで遊び倒したり、読み尽くしたりする経験はめちゃめちゃ大事です。
通常、「芸術」とか「大学での学び」とかってクッソつまらなそうに聞こえるものですが、ゲームがイイ感じにその架け橋となってくれるのです。
そういった意味でも、ゲームは非常に貴重な学びの機会になり得るのです。
TVの方が絶対に有害でしょ
「ゲームは有害」と聞くたびに思うのが、「いや、それを言うならテレビの方がぜったいに有害だと思うんですが」ということ。
ぼくらゲームネイティブ世代からすると、むしろテレビで垂れ流しの映像を観ているだけの親世代の方が心配になります。
(テレビ番組自体をdisっているワケではありません。僕もテレビは好きです)
ニュースを読むだけならスマホを活用すれば可能ですし、ネットの方がよりエッジの効いたコンテンツを楽しむことだってできます。
また、TVは基本的に「プッシュ型」のコンテンツであり、要は受け身です。それに対してゲームは「プル型」的な側面(つまり能動的)があると思っています。
自分でゲームを楽しむために様々な試行錯誤をするのと、垂れ流しの映像をただ眺めるだけの行為とでは、どちらが子どもにとって良いかは言うまでもないでしょう。
まぁ「受け身だからダメで能動的だから良い」といったワケでは必ずしも無いと思いますが、とはいえゲームを有害と言うのであれば、じゃあTVはどうなるんだ、って疑問も抱かざるを得ません。
”ゲーム”と”学び”と”オタク”
ゲーム=大学の勉強
「ゲームは「芸術」の入門」の項目でもお話したとおり、ゲームには大学以降の学びと通ずるものがあると思っています。
自分で興味を持ってゲームに取り組んだり、戦略を試行錯誤したり。このプロセスは大学の卒業研究とほとんど同じです。
高校までの教育は、与えられた課題に対する正解を暗記して答えないといけない、といった学習がメインです。しかし大学以降になると課題は与えられず、自分で探す必要があります。
高校までの「詰め込み教育」にも良い側面はありますが、ゲームには学校の勉強に足りない要素を補完してくれる役割があるのです。それをヘンに規制する必要性は全く感じません。
もちろん、やらなければならない事に優先順位はあります。いくらゲームが勉強になり得るからといって、たとえば大事な試験前にゲームをやりまくるのは得策ではないでしょう。まぁこれはゲームに限ったことではありませんが。
その点だけは注意が必要です。
オタクになると全てが”学び”になる
これも筆者が大学で痛感した事ですが、何が学びのキッカケになるかは誰にも分からないという事です。例えば海外のRPGゲームで遊んでいたら知らないうちに英語とプログラミングが出来るようになった、というような事も充分にあり得ます。
(筆者も英語のギャルゲーで女の子の言っていることを理解したいがために、よく分からなかった台詞を全て書き起こして翻訳しまくった経験があります。楽しかった笑)
つまりオタクになると「努力感ナシで学ぶ」という事ができるようになるのです。
よくテレビCMとかで、資格の勉強とかセンター試験の勉強をしてる人が「ハチマキを巻いて体調を崩しながら夜遅くまで頑張る」的な映像を目にしますが、正直意味が分かりません。
まぁ、そういった”気合いで詰め込む”的な学びも大事だと思うのですが、そういった「ガマンの学び」は持続性がありません。
それよりも、オタクみたいに信じられないくらいにゲームの世界観やらストーリーやらスクリプトやらをしゃぶり尽くしている方が、ずっと深い学びをしていると思うのです。
僕の体験談で恐縮ですが、僕は小学校5年生の時にプレイした「三国無双」シリーズ(三国志の英雄を操作するアクションゲーム)に衝撃を受け、そこからは毎日図書館で三国志を読んだり、親にも三国志の本を買って貰って、夜寝る前に何度も読み返したりしていました。
それが歴史について興味を持つキッカケになったりもしたのです。
「ゲームをプレイする」というのは、多様な学びへと派生するキッカケになる、発展性の高い行為なのです。
ゲームをめぐる”認識のギャップ”が起きてしまった原因とは
オタクに対する悪いイメージ
さて、ここまでで「ゲーム世代」である僕が、「ゲームは1日1時間」について思う事を述べてきました。
しかし、そもそもなぜ「ゲーム」に対してマイナスイメージが付いてしまったのでしょうか。なぜこれほどまでに認識のギャップが生まれてしまったのでしょうか。
これは僕の勝手な想像でしかないのですが、親世代は「オタク(geek)」に対して良いイメージを持っていないのです。
親世代の大半は、『宮崎勤事件(1988年)』や『酒鬼薔薇事件(1997年)』などの、非常に社会的インパクトが大きかった事件をリアルタイムで知った世代だと思います。
そして、いずれの事件もいわゆる「内向的なオタク」が引き起こしたものであったため、知らず知らずのうちに「オタクはヤベェ」みたいな認識が広まってしまったのかもしれません。
昔のちびまる子ちゃんで、はまじがテレビでロックバンドを観ている時に、はまじのお母さんが「アンタ!そんなの観てたら不良になるよ!」と怒っているシーンがあり「あぁ、昔ながらの偏見だなぁ」と眺めていたのですが、それと同じような事が令和の今でも起きているのです。
実際は、凶悪犯罪の発生件数は近年右肩下がりになっており、むしろテレビ世代の方がヤベェのでは…?と思わざるを得ません。(もちろん、こういった統計には様々な要因があるので一概には言えませんので、これはただの屁理屈です。笑)
子どもが何を見ているか分からないことへの不安
親世代としては、子どもが何を見ているのか分からないことへの不安があるのだと思います。
例えばSNSひとつとっても、自分とまったく違うタイムラインを見ているワケですから、これは「みんな夜8時に同じテレビ番組を観る」という文化で育った親世代には非常に違和感を覚えるポイントだと思います。
その気持ちは分かりますが、「なんだか良く分からないから取りあえず禁止!」みたいなのは非常にもったいなく思えてなりません。
気持ちは分かりますが。
ゲームやスマホは「制限する対象」ではなく、もっと建設的に
ゲームで学ぶ
これほどまでに文化としてゲームが発達し、インフラとしてインターネットが発展した今、ゲームやスマホを禁止するのではなく、学びのツールとして捉えたほうが絶対に建設的なのです。
これはクッソつまらない教育系ゲームを作るべき、といった話ではなく、オタクになってゲームなどの文化から何かしらを学び取る感性を身につける、という事です。
何度も言いますが、ゲームと学びを切り分ける事自体がナンセンスなのです。
もちろん、最近は子どもの運動力低下や活字離れが大きな問題になっているのも事実です。
ただこれは、ゲームだけでなくYouTubeやネットサーフィン、あとはひたすら絵を描いたり木を彫ったりしていても起こりうる問題で、ゲームだけが直接的な問題ではないのです。
もちろん制限すべきゲームもある
あんまり教育上良くないというか、やる意味が薄いように感じるゲームも個人的にあって、それは「重課金ソシャゲ」です。
「工夫しなくても札束で殴れば勝てる」的なゲームには思考プロセスが不要ですし、あえて依存させるように作られていることもあるため、ゲームならではの噛み応えがないというか、味気があまり無い…。(あくまで個人的な感想です)
ゲームというよりパチンコとかに近いんじゃないですかね。やった事無いけど。
ただこれはアルコールと同じで、適切な付き合い方が必要なものだと思っています。
まとめ:結局、僕ら大人たちが悪い
今回の「ゲーム禁止条例」の炎上の原因は、
- 政策としてのテキトーさ
- ゲームやネットに対する、大人たちの認識のヤバさ
ザックリとこの2点に集約されるでしょう。
そしてこのような「ゲーム禁止」は僕自身も含めて、大人たちの責任であると思っています。
ゲームにおける学びを良い方向へ持っていく手段が思いつかないから、ゲームやスマホ自体を禁止し、取り上げることしか出来ない。
そうやって半強制的にゲームを取り上げ、子どもたちの感情を殺すことで大人たちは安心したいだけ。
もしかしたら「条例で決まっているから」という伝家の宝刀を用意したいだけなのではないでしょうかね。もしそうであれば、思考停止しているのはゲームをしている子どもではなく、僕ら大人たちの方かもしれません。
僕もずっと「ゲームは禁止すべき」的なことを思っていた時期があったので、今回の件を受けて個人的にも反省すべき点は多いです。
これだけ文化としてゲームが発展し、世界有数のクリエイターがいる分野における学びを抑圧するべきではないのです。
どうかこれを「引きこもりゲームオタクの戯言」と受け止めないでほしい。
親が「ゲーム依存」を心配する気持ちはめっちゃ分かります。自分の子どもが「ゲーム依存」になって働きもせず引きこもって無気力な抜け殻みたいになるのは、誰だってイヤでしょう。
しかし、もはやそのレベルになったらゲーム自体が問題ではありません。アルコール中毒や薬物中毒と同じで、そうなってしまった原因そのものに目をむけるべきであって、ゲーム自体を問題視するべきではないのです。
これは、教師の暴行事件を受けて給食のカレーを禁止した某小学校と変わりません。
今回炎上した香川県の素案も、ただ認識にズレがあっただけで悪気はあったとは思えません。当たり前ですが。
今回はそんな世代間の「認識のギャップ」に対して個人的に非常に興味が湧いたので、記事を書いてみました。
もっとゲームやネットを建設的に利用するような方向になると良いんですけどね…そうなる事を願っています。
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