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おもしろ哲学2選!あなたはどう考える?【誰でも楽しめる哲学】

こんにちは、とまです。

今回は、完全なお遊びとして「誰でも楽しめる哲学」を取り上げようと思います。

「哲学」ってなんだか難しいイメージだと思いますが、今回取り上げるものは興味深くて面白いですよ!

 

あ、先に言っておきますが、僕は哲学のシロウトです。哲学を専攻している学生でもありません。

 

そんな僕が、たまたま本で見つけた

いとう

あ、なんか面白いな

と思った哲学ネタを2つ、ご紹介します!

 

なお、以下が参考文献です。

以下で紹介するような、身近な哲学の問題が、解説付きで50個も紹介されています。

わかりやすい内容なので、ヒマなときにこの本のネタで、友人や家族と持論を言い合う「哲学ゲーム」をやるのも面白いかもしれません。

 

いとう

めっちゃ頭よくなりそう…笑

はじめに

「こういう時どうすればいいと思う?」

 

という簡単な説明文のあとに、ちょろっと解説を加えるというスタイルでいきます。

みなさんは一緒に考えてくれても、考えなくても大丈夫です!

ふ~んそういうことか~

くらいの気持ちで読んでみて下さい!


①「救助隊の人命判断は?」

 

10人中8人を見殺しor10人中8人を救うが、2人の犠牲

舞台は、まさに浸水しかけている洞窟の中。

 

その洞窟内の空間Aには8人の探検家たちが取り残されており、救助隊が行動しなければ30分以内に8人が死亡してしまいます。

しかし救助隊には、彼らを時間内に外に出すことや水をせき止める方法がありません。

 

一方、その洞窟内の空間Bは狭いものの、完全に安全です。

そしてそこには2人の探検家が避難しており、救助を待っています。

 

浸水しかけている空間Aにいる8人の探検家を救うには、水の流れを空間Bに向けるしかありませんが、

そうすれば狭い空間Bは数分で水に溢れ、2人は死亡します。

 

さて、救助隊はどうするべき?

カンタンに考えてみる

一発めのネタから飛ばしていきます。(笑)

 

今回はつまり、

  • 8人の命を助けるが、そのまま放っておけば助かるはずだった2人を、意図的な介入により死亡させてしまうか、
  • 2人の命を助けるが、8人も死亡させてしまうか。

ここがポイントで、

作為・不作為

これにより起こる事の道徳的な違いが論点でしょう。

 

カンタン解説

  • 作為→行為をすること
  • 不作為→行為をしないこと

ちょっと道徳的に考えてみる

作為・不作為についてちょっとだけ踏み込むと、

  • 作為→行為を「する」と決めた
  • 不作為→行為を「しない」と決めた

となり、

 

いとう

あ、どっちも決断はしてるやんけ!

ということがわかります。

 

そして、この洞窟のケースだと「誰が生きて誰が死ぬべきかを決めている」、という事が言えます。

恐ろしいですね…。

これを「神を演じる」というようです。

 

別の例を挙げてみると、

  • 要介護者を、浴槽で溺れさせ死亡させた→作為
  • 要介護者に、食事を与えず餓死させた→不作為

この場合、作為と不作為、どちらが悪いとかは言えませんよね…。(笑)

 

同じような例だと、安楽死がありますね。

  • 積極的安楽死→治療によって患者の死を早める。
  • 消極的安楽死→治療を控える事によって、死に至らしめる。

行われたことと発生を放置されたことの間の道徳的区分は、このような医療分野で持ち出される事が多いようです。

考えてみるヒント

哲学者でさえ考え方が分かれることなので、ラフにいきましょう(笑)

 

参考文献によると、

行為を道徳的に評価する際は、行為者の意図がきわめて重要とされるのが一般的だ。私たちの行為は、悪い結果を招くつもりはなかったとしても、非難をまぬがれない場合がある(その行為が怠慢を示している場合など)。しかし、その結果が意図したものだとしたら、同じ行為がより一層厳しく判定されるだろう。作為不作為説と密接な関連がある二重結果の原則は、ある行為の意図された結果と単に予期された結果を分けるという考えに立脚するものだ。

(引用:「人生に必要な哲学 50」著者 ベン・デュプレ 翻訳 近藤隆文)

まあ、何かが起きた時にそれがワザとなのかそうではないのか、という事ですね。


意見の一例

不作為で人を死なせる(この場合は、8人を見殺しにする事)より、人の死を招く事をする(8人を助けるかわりに、助かるはずだった2人が死亡する)方が悪い!
いやいや、8人の命が失われる方が深刻だ!
生き残るはずだった2人に手を加え、死亡させるのは明らかな殺人だ!

など。

 

みなさんはどう思いますか?

②言葉の共有とは?

 

それ、ホントにカブトムシ?

人がみな、箱を1つ持っているとします。

その中に、僕らが「カブトムシ」と呼ぶものが入っているとします。

 

僕らは他人の箱の中を覗くことはできず、誰もが自分の箱の中のカブトムシを見ることでのみ、カブトムシとは何であるか知っていると言うのです。

 

この場合、それぞれの箱の中身が違う可能性も考えられるのではないでしょうか?

カンタンに考えてみる

誰もが、自分の箱の中身について話すとき、「カブトムシ」という言葉を使うでしょう。

カブトムシ」という言葉が意味するのは、単に「箱の中にあるもの」ですので、実際の中身とは無関係です。

 

別の例を出してみます。

 

本書にも登場している「痛み」を例に出して考えてみます。

 

「痛み」とは、自分の内面で起こることですよね。これは自分の箱の中にあるもの、とも捉えられます。

自分の内面で起こっている事を話すとき、みんなが言ったこと(公的な発言)を通して学んだ、みんなのルール(公的なルール)に従って言葉を発します。

 

「痛み」などの、内的で私的な感覚は、公的な部分に関与できません。

実際に内的な感覚がどうであれ、「痛み」などの言葉の意味とは何の関係も無いのです。

付け加え

「色」についても、同じように考えられるかもしれません。

僕が見てる緑色って、実はみんなから見たらピンクなのかも…。

みたいな。

考え出すと寝られなくなるパターンのやつです(笑)

 

ピンクという色があったとして、そもそも他人は自分と同じように見えているのか。

先ほどの言葉を借りると「公的なルール」に従っているだけで、同じ色に見えているかどうかは分からないのです。

 

こういう事を考えだすとキリが無いので、哲学者でもない限りは程々にしましょう。(笑)

まとめ

生活していると、至る所に哲学って隠れていますよね。

ちょっと物事を深掘りすると、哲学の世界に踏み込んでしまいます。

 

哲学って意外と身近な存在なんですね。

(哲学を理解すれば、いつか「バッ!」と新世界が見えるようになるとでも言うのか…?)

いとう

哲学者の頭の中を見てみたい…。笑

 

最後に今回の参考図書。1テーマ4ページくらいなので、ちょこまかと読めます。

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